『花神(上)』 ~それは司馬遼太郎の最高傑作~

今日は、読書などしている。

画像は『花神』という本で、司馬遼太郎大先生の思想、すなわち『司馬歴史観』なる物の集大成の一冊、唯一無二の一冊なのであるが、まあその理由は後段でしよう。

司馬先生の歴史小説主要どころを、僕は小6の夏休みの課題図書にした事を端緒に読み始め、中、高、大と、授業も聴かずにぼつぼつ読み続け、やっと一周したのが大学生の初期であった。

『花神』は、まごうかたなきオオトリの一冊だったが、初回を読んだのは大学生活も中期ごろに及んでいた。

司馬遼太郎の歴史小説は一周通読するのに10年かかるのだから、長い旅である。(他にも色々寄り道しとるけれど)

花神
花神 上・中・下巻

二周目の旅は、大学生後期から勤め人に至る過程で始まった。

勤め人を卒業して(※半年間の膿出し期~人生ゲームで言う一回休み、何も出来ない~を経て)このごろ再び読書生活を再開し、今まさによみかけているのが二回目の花神である。二周目の読了は目前に迫っている。

僕は司馬遼太郎先生の歴史小説を読んで、うだつのあがらない勤め人生活で萎えそうになる気力を奮い立たせてもらって、本当に感謝しているのだ。

そう、旅路旅路といいつつ、肝心のルートについて触れていなかった。

僕が勝手に主要ルートと名付けている順があって、国盗り物語(斎藤道三・織田信長)→新史太閤記(豊臣秀吉)→覇王の家(徳川家康)→関ヶ原(石田三成)→城塞(大阪の陣)、これがまず『戦国物』の僕のおすすめするオーソドックスな読み順である。

続いて『明治物』の主要ルートが、竜馬がゆく(坂本龍馬)→峠(河井継之助)→翔ぶが如く(西郷隆盛、大久保利通)→坂の上の雲(秋山真之、秋山好古、正岡子規)、だ。

日本民族の集大成と言える大偉業が、坂の上の雲で描かれる『日露戦争』であり、そのクライマックスこそが日本海海戦なのであるが、これは貧しい日本人の努力に次ぐ努力が開花する瞬間であるから、たいへん盛り上がる。

司馬遼太郎最高傑作に、坂の上の雲を推す人が多く居る理由はこれだ。

確かに、坂の上の雲には司馬遼太郎の『小説を通じて伝えたい想い』(※通称、司馬汁)が非常に濃く表れいる。竜馬がゆく、にもそれは濃い。

だが、僕は「花神」こそが最高傑作だと思うのだ。『想い』の発露が一番直接的かつピュアな形で出てるのがこの作品だから。

司馬遼太郎先生が、歴史小説を通じて成し遂げたかった事というのは、

「なんでこの国は太平洋戦争なんて馬鹿なことをやらかしたんだろう?日本人はどうしてこんなに愚かなのだろうか?」

「そもそも、いつの時代にどういう因果があって、日本人はこんなに愚昧になったのか?

「明治人は優秀だったらしいけれど、それにひきかえ、昭和人の馬鹿さ加減はいったい何なのか?」

つまり、日本とは何か?日本人とは何か?

を、問うこと、これが司馬遼太郎小説の真髄なのである。

自分の青春を根こそぎ奪ってしまった戦争に、根深い恨みをもっておられる。

軍隊生活の中で山ほど食らった理不尽な鉄拳制裁とか、極寒の満州で戦車を素手で触ったら掌の皮が凍って全部剥がれてしまったとか、ごくまれにではあるが、先生の筆からは兵隊やってた頃の恨み節が出て来る。

それが原動力となって日本史を調べまくって小説を書きまくった、という事は、押さえておかねばならない。

だから、

「日本陸軍が嫌い、日本陸軍な人間が嫌い」

という基本スタンスは、司馬小説どの作品においても守られる。

僕は新卒で入ったブラック企業に今なお恨みを持っている訳だが、司馬先生は大学在学中に問答無用で徴兵されたブラック組織(※陸軍だけど)に、人生をむちゃくちゃにされた、と、因縁を含んでいるのである。これが司馬汁の根本である。

僕などとはレベルが違う。

 

ざっくり、花神の主人公の村田蔵六と言う人がどういう人か、述べておこう。

時代背景は「竜馬がゆく」や「峠」と同時期、いわゆる幕末維新の頃に活躍した人物だ。

役割は、超天才の軍事指揮官という奴であり、まあ平たく言うと資料が豊富な時代の『天下の大将軍』の話である。

皮肉にも、司馬遼太郎先生が大嫌いな日本陸軍の基礎を作った人物でもある。

しかしながら、司馬先生は村田蔵六のような合理主義で、現実主義で、しかも無欲で、確かな科学技術の知識をもって未来を見通すビジョンがある人物が、好きなのである。

このような優れた人物が合理的な日本陸軍を整えていたならば、先の大戦のような愚かな事にはならなかったろうが、いったいどこで日本陸軍はおかしくなったのか?

そんな課題意識で『花神』を書いたんだろうなあ、と、青年期を抜け出しつつある僕は、思いを馳せる訳である。

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村田蔵六(のちに大村益次郎に改名)は、こういう顔をしている。

ノンフィクションのつらさ、である。

時代を同じうして、残った顔写真があまりにイケメン過ぎて、永遠の人気を不動のものとしてしまった新選組とはえらい違いや、と、言えまいか。

そして、重度のコミュ障でもある。面白いことは言えないし、友達も居ないタイプだ。

華が無い主人公である。

司馬遼太郎の入門編に向いた作品、たとえば、斎藤道三とか坂本龍馬とか河井継之助とか、若々しいエネルギーに溢れた無敵超人の主人公が、大車輪の活躍をして、読者を痛快な気分にさせる作品もあるのだが、花神にはそう言う要素は無い。

「通好み」

なのである。

小説は、村田蔵六という田舎の変人医者の静かな青春を軸に、しとしと展開してゆく。

ところでだが、何をもってして通好みなのか?という問題。

それは、日本民族が持つダメな所~それはトチ狂って太平洋戦争やらかした愚民の炎上気質のようなもの~、と、日本民族が持つ素晴らしい所~それは明治維新や日露戦争を成し遂げたパワー、戦後の高度経済成長の原動力となったパワー~、と、が小説という形で非常に分かりやすく説明されている事である。

僕の見立てでは、日本の大企業たちは既に病的になってると思う。

形式主義と官僚主義に覆われて、みんな考えないし働かなくなってる。

旧日本陸軍と同じ病気で、それじゃ戦いには勝てんわ、的なね。

個人的な話で恐縮だけど、僕のオヤジは、

「会社楽しかった、仕事が楽しかった、好き放題やらせてもらえたから」

と、在りし日の猛烈サラリーマン時代を述懐するのである。

世代の下る僕からすると、まったく意味が分からない話だ。

勤め人生活は苦役でしかない。

ある時代には有効に機能していたシステムが、今は陳腐化してしまったからである。

話がずれたけれど、『花神』は司馬遼太郎小説の中で真に最高傑作と言える一冊である。

でもまあ、日本史初心者は無理せず『国盗り物語』から読むのがいい。

をはり。